あの日の記録

推しは神様じゃないけど解釈は信仰

愛すべき責任感

前置き

  • 2023.02.26. 中川晃教コンサート at 東京文化会館 2023の感想文
  • 感想文なのでレポではないです
  • ほんの少しだけ新曲ネタバレがあります
  • 個人の感想です.思想が強めです.私の解釈上の中川さんについて書いています

本題

推しがかっこいい,という話をしようと思う

推し(中川さん)がかっこいい,という話をしようと思う. かっこいいといっても色々あるが,その中で今回は,生き方がかっこいいという話. 私はあの人の生き方が好きだ,という話.

歌を歌うという仕事

人前で歌を歌う仕事,と一口に言っても色々ある. 「バンドのボーカル」に「オペラ歌手」,「歌の先生」や「聖歌隊」や「お笑い芸人」だって歌を歌う. そして「ミュージカル俳優」も「シンガーソングライター」も歌を歌う仕事だ. 推しの活動フィールドは主にこの2つで,ときにミュージカルの大舞台で大ナンバーを歌い上げたかと思えば,コンサートでピアノを弾きながら自作の曲を歌ってみせたりもする. この「ミュージカル俳優」と「シンガーソングライター」の2つの活動の共通点と相違点を考えてみたい.

まずは共通点. それは「歌を届ける仕事」でありつつ「歌を通して何かを伝える仕事」でもあることだと思う. つまり,歌は目的でありながら手段でもある. 目的だけになっても手段だけになってもいけない. 「ミュージカル俳優」も「シンガーソングライター」も,それらのバランスを保ちながら歌を歌う仕事だといえる.

次に相違点. これは,先ほど挙げた「歌を通して何かを伝える仕事」において「何か」を具体的に何に設定するかというところだ. 「ミュージカル俳優」は作品のメッセージを伝えるために歌い,「シンガーソングライター」は自分の頭の中身を伝えるために歌う.

ミュージカル俳優が歌う理由は,その作品がもつメッセージを観客に伝える役目を負っているからである. ミュージカル内で歌が始まるのは,(俳優も含めた)作品の作り手によって,その場面での役の状況や感情などを伝える手段は歌が最適であるという判断と合意が為されたからであり,俳優が歌いたくなったからではない. だから,ミュージカルの中で俳優が表現するものはすべて「役」ひいては「作品」のものだ. 歌は「作品」の一部であり,作品を伝達する手段であり,「俳優自身」のものではない. 情熱的な口説き文句も,倫理観や思いやりに欠ける暴言も,役の価値観や立場から生まれ出るものであって,それが演じている人の個人的な考えと合致しているかどうかは別問題である. もちろん,役作りと俳優の主義主張や考え方が無縁だといいたいのではないし,それらを無関係なものとして完璧に分けることは不可能で無意味だろう. ただ,作品内で歌われる歌はその作品を作品として成立させて届けるために存在しているのであって,俳優個人の意志表明の機会ではない.

他方,シンガーソングライターが歌う理由は,より個人的なところにある. 個人の考えや感情や経験,思想,信条,主張など,何でもいいのだが,とにかく作り手の脳内にあることを取り出して他人に伝えるのがシンガーソングライターの歌だ. 伝えたい何かがシンガー自身の中にあるから歌を歌う.

チョコレートで例えてみる. ミュージカル俳優の歌はチョコチップクッキーのチョコチップであり,シンガーソングライターの歌は板チョコである. チョコチップが不味かったらクッキー全体も不味くなるが,チョコチップだけが美味しくてもクッキー全体が美味しくなるとは限らないし,チョコチップはチョコチップ自体の美味しさを宣伝するためにクッキーの中にいるのではない. あくまで,クッキー全体の調和を守り,それによって消費者を喜ばせることがチョコチップの存在意義だ. 一方の板チョコは,それ単体で勝負するほかない.

話を戻そう. このように,ステージ上での役割の異なる「ミュージカル俳優」と「シンガーソングライター」を,推しは兼業している. とはいえ,どちらも歌を歌う仕事だ. チョコチップも板チョコも同じ材料から作ればある程度は同じ味になるように,ミュージカルの歌もシンガーの歌も同じ人が歌えばある程度は同じ歌になる. ある程度は.

この「ある程度同じ」になり得るのが声の出し方や音の操作の仕方などの技術的な部分であり,同じにならないのが,伝えたい内容などのメッセージ性の部分,もっといえば「魂」の部分である. 「ミュージカル俳優」と「シンガーソングライター」を行ったり来たりするということは,当然,その時々によって歌に込める「魂」も変わってくる.

推しはそのことにとても自覚的なのだ,というのを今回のコンサートを観ていて感じた. 同じ肉体,同じ喉から発せられる音であっても,そこに「自分は今シンガーとしてここに立っている」という自意識を入れて,意図的に別物にしている. そこに,推しなりの決意があるのだと思う.

歌の社会性

音楽には力があり,歌には力がある. 歌で何かを表現するという活動は,それを聴いた人に何らかの影響を与える可能性をもつ. それが良い影響か悪い影響かという区別にはあまり意味がないし,発する側が厳密にコントロールできることではないが,歌は影響力をもっている. 例えば,「戦う者の歌が聞こえるか」と歌ったアンジョルラスが民衆を扇動したように,"Hosanna!"と叫んだ人々がジーザスというアイドルの虚像に熱狂したように,あるいは,私がこの文章を書きたいと思ったように.

推しはこの力を実感しているし信じているのだと思う. 自分が歌を歌うことでその歌を聴いた人に何らかの影響を及ぼすことを,よくよく理解している. だからこそ,歌で「何を」伝えるのか,ということに意識的に向き合わざるを得ないのだろう. その匙加減で,聴き手に与える影響が変わるから.

つまるところ,歌を歌うというのは社会的活動である. 歌を介して,歌う人と聴く人の間に関わりが生まれる. 無関係ではいられなくなる.

だから,相手に「何を」届けようとして歌っているのか,と問うことは,歌う人の社会的存在意義を問うていることに他ならないし,職業として歌を歌うからには,社会の中に生きる人間としての責任がつきまとう.

そのことを分かっている人の歌は強い. 「歌を歌いたい」という根源的欲求とは似て非なるところから湧いてくる「歌を歌わなければならない」という気迫が歌に宿る. 一つひとつの音に対する誠実さ,妥協のできなさ,覚悟,そういうものがにじみ出てくる.

そのときに歌うのが「シンガーソングライターの歌」ならなおさらだ. 歌に込められた「魂」さえ,責任を取るのは自分しかいないのだから.

それでも推しは歌を歌う. シンガーとして,イキイキと目を輝かせながら. 歌う責任と引き換えに,すべてが思い通りになる歌を歌う権利を得たかのように.

そうやって肩に乗る重圧を認識しながらも自分の歌を追求し続ける人が,私は好きだ. たまらなくかっこいいと思う. 圧力に負けて縮こまるのではなく,逆に圧力をバネにして一層力強い歌を歌う姿が大好きだ. 圧力を感じていない人には歌えない,うねりを伴ってエネルギーを放出する歌が大好きだ.

見方が変われば

以前,推しの歌を「独りよがりだ」と思っていた時期がある. とかく自我が前面に出すぎて,うるさい(比喩)歌だと思っていた.

でも今となっては,その主張の激しい個性が好きで,そんな人が歌う歌が好きで,まだまだ飽きそうもない. それどころか,今回披露された新曲を聴いていて,あふれ出る責任感に強く刺激され,こんな文章を書くにまで至ってしまった. 推しが生活の中で自分の責任について考えていたのだと思ってしまったから.

と,まあ,ここまでつらつらと書いてはみたものの,実際の推しの胸中は私には確かめようがない. 発信される言葉をもとに想像することはできても,それはあくまで私の脳内補完であって,事実ではない. だからもし仮にこの文章を推しに読んでもらったら,「ほんのちょっともこんなこと考えたことない!」とケラケラ笑われる可能性だって大いにあるのだ.

それでも私はこの文章をここに残しておこうと思う. あの歌を聴いた者の責任として,そして言葉をもつ者の責任として.