あの日の記録

推しは神様じゃないけど解釈は信仰

かつてマチルダだった大人たちへ

前置き

  • ミュージカル「マチルダ」2023.04.18.マチネ(ミスター・ワームウッド:田代さん回)を観て思ったこと
  • ネタバレ注意
  • 田代さんのファンが書いているので,同情や贔屓目はあると思います
  • 裏付けは特にない感想文です
  • カンパニーの皆さまのご健康と,皆さまお元気での公演再開を願っております

本題

Q: なぜ,ミスター・ワームウッドは本が嫌いなのか?

A: 役に立たないから.

以下,この回答を前提に話を進める. ミスター・ワームウッドがこのような考え方をするに至った背景は2通り考えられる.

  1. まともに本を読んだことがない人生を送っており,それで困ったことが特にないため,本は役に立たないと決めつけている.
  2. かつて実際に本を読んだことがあるが,役に立たなかった.

これらのどちらが事実なのか(あるいは他の背景があるのか)は本編中で直接語られないが,私は2.だと思う. その理由は2つある.

(1) 知識そのものを嫌っているわけではない

ミスター・ワームウッドの主張は,「知識をつけることそのものが問題なのではなく,知識をつけるための手段が本であることが問題なのだ」だと私はとらえている. この主張を行うようになった経緯を想像すると,本を読んだ経験がある方が自然だと思う. 以下で根拠を説明する.

まずミスター・ワームウッドの主張について. ミセス・ワームウッドがマチルダが賢くなることを否定的にとらえているのに対し,ミスター・ワームウッドはそうではない. 学校へ行くこと自体を止めてはいないし,テレビを見ることは推奨している. マチルダの兄マイケルにビジネスのノウハウを教えようとする姿からも,(そのノウハウが的を射ているかは別として)子供に教育を施すつもりがないわけではない. 詳細は失念してしまったが,「学校では『正しい』ことなんか一つもない」というニュアンスの台詞もあるように,社会の厳しさについて教えようとすることさえある. すなわち,マチルダが本を通して新しい考え方や知識に触れることが嫌なのではなく,あくまで本という媒体が嫌いなのである.

これを踏まえると,ミスター・ワームウッドが本を読んだことがないというのは不自然だ. 読んだことがあるからこそ,本には何かしらの知恵や示唆が書いてあることを知っており,かつ,それらが人生において参考になることはないと感じた経験があるのではないだろうか. 本を真面目に読んだことがない人は,そもそも本がどのようなもので,読書をするとどのようなことが起きるのかを身をもって知らないだろうし,周囲からの伝聞で漠然と「本を読むと知識が増える」と知っていたとしても,その状態で知識そのものではなく本に嫌悪の矛先が向くとは考えにくい.

さらに,テレビはよくて本はだめだ,と言い切ることは,テレビと本の違いを知らなければ難しい. 「テレビさえ見ていれば十分なので本を読む意味は全くない」という発想は,知識を得るための手段としてテレビと本とを比較検討したことがある人にしか生まれないものだと思う.

要するに,ミスター・ワームウッドは,本を読んだ経験の上で,「見識を広げるために本を読むことは役に立たない」という主張をするに至ったのだと考える.

(2) 本という物体に対する憎悪が強い

ミスター・ワームウッドが本を痛めつけるのは,本を読んでみたが役に立たなかったという経験をもとに,本というものを憎んでいるからだと考える. 以下はその説明である.

ミスター・ワームウッドは本という物体に対して本編中で二度も加害する. 一度目はマチルダが読んでいた本を取り上げて引き裂き,二度目は置いてあった本を次々と放り投げる. まるで八つ当たりのように.

その行動は,「マチルダに本を読むのをやめさせたい」という欲求から発生するにしては過激だと感じる. 何もそこまでしなくても,マチルダの手の届かないところに隠したり,勝手に図書館に返したりしてしまえば,その「本を読むのをやめさせる」という目的は達されるのだから.

ではなぜミスター・ワームウッドは本を破壊していたのだろうか? その理由の一つは自分の言うことに従わないマチルダへの見せしめであり,もう一つは本というものに対する復讐だと思った. 少々突飛なのは認める. だが,本以外のものには感情的に手を出す様子が見受けられないことから,日頃から物に当たるタイプだとは考えにくく,あくまで「本を壊す」ことに価値を見出しているのだと感じざるを得なかった. すると,この「本への加害欲」はどこから湧いてきたのかを考えなくてはならない. 私はその原因が「以前,本を頼りにした際に裏切られたので,本を恨んでいる」ことではないかと直感的に思っている.

これは「そんな気がする」程度の話であって,これ以上詳しい根拠を私は持ち合わせていない. ただ,「読んだことはないがとりあえず本が嫌いだ」という人が行う破壊行動にしては怨念がこもりすぎているというか,迫力がありすぎるというか,壊してやりたいという気持ちが重すぎると思った. ここまで本に執着して繰り返し手にかけるためには,それなりに強い動機が必要だ. 「なんとなく」以上の.

だから私はその動機が「信じていたのに裏切られた」なのではないかと疑っている. 一度は本を信頼したのに,本がその期待に応えてくれなかったので,逆恨みして仕返ししてやろうという気持ちがあるのではないか. もちろんこれは検証しようのない仮説なので,正しいとも正しくないとも断じられないのだが,観劇の感想として,ここに記しておく.

ちなみに私はミスター・ワームウッド役が斎藤准一郎さんの回を一度先に観ていて,4/18マチネに初めて田代さんの回を観たのだが,准一郎さんの回ではこのような感想にはならず,田代さんのミスター・ワームウッドを観て初めてこう思った. 演じる人による違いなのか,2回目だから私が慣れてきて感じ方が変わったのか,それとも私が多少なりとも田代さんのバックグラウンドや人となりを知っているからそれを投影して役を見ているために出てくる感想なのかは分からないが,田代さんの回を観てこう思ったことを記録しておきたい.

話を戻そう. 私は,ミスター・ワームウッドはかつて本を読んだことはあるものの,本に失望させられる出来事を経験したために,本を憎んでいると考えている.

かつてマチルダだった人

以上の2点から,私は,「ミスター・ワームウッドは本を読んだことがあるが,本を読むことは役に立たないと思ったので,本が嫌いである」と結論付ける.

この結論を前提にすると,一つ思うことがある. それは,「ミスター・ワームウッドもかつてマチルダのようだった時期があるのではないか」ということだ.

チルダほどの切れ味ではなかったにしろ,ミスター・ワームウッドが,本を読み,考え,発信する聡明さをもっていたことは十分にあり得る. だが人生のどこかで何らかの経験をし,深く傷つき,本を信用できなくなった結果,あのような大人になってしまった. マチルダも,成長する過程で何らかの出来事によって本に裏切られ,本のアンチ過激派に転向した場合,ミスター・ワームウッドのように本を目の敵にする可能性があった. ただしそれは,ハニー先生と出会い,自分の生き方を他人に認められることによって自分でも肯定し,「一番大切な人」とともに生きる決意をしたことによって阻止されただろう. 逆に言えば,ハニー先生に出会えなかったマチルダの将来は,ミスター・ワームウッドだったかもしれない.

だとすると,ミスター・ワームウッドはマチルダの中に何を見るのだろう. かつての自分を見てはいないか. かつて本が好きで読んでいた自分を. そして忠告したくなりはしないか. 本ばかり読んでいたっていつか裏切られて傷つくだけだ,と.

さすがにこれは穿ちすぎか. しかし,自分が苦しんだことを子に伝えてその苦しみを回避させてあげようとしているのなら,その考え自体は決して悪いといえるものではないと思う. そのために取った手段が致命的に悪くてかえってマチルダを傷つけてしまっているのは大問題だが.

それに,ミスター・ワームウッドが本をけなすたびに,それがマチルダや他人に対してのメッセージであるのと同じくらい,自分に対してのメッセージであるように思えてならなかった. 昔は本を読むのが好きだったのに今は読む気がないことを正当化し,面倒で時間もかかる「読書」という行為から逃げるための. 自分の頭で考えることをやめ,「楽」に生きることの言い訳としての.

こうして考えると,ふと,ミスター・ワームウッドがとんでもなく恐ろしい存在に見えてくる. それは,マチルダを脅かすからではなく,私を脅かすからだ.

私もかつてはマチルダのように本を読み,それに夢中になった時期があった. あれほどまでの口達者でも機転が利く人でもなかったことは強調しておくが,周囲よりいささか物覚えはよい方だった. でも今の私は,ミスター・ワームウッドと大差ない. もちろん詐欺師になるつもりやなったつもりは毛頭ないし,本が嫌いになったわけでもないが,本を読むことを怠り,考えることをやめ,「楽」をして生きている.

だから,ミスター・ワームウッドを観ていると,マチルダから「ああ,お前はそんな大人になってしまったんだね」と喉元にナイフを突きつけられているような気がする. そんな大人になりたかったのかい,そんな大人でいていいのかい,と問われているように思える. 大事なことを忘れていないか,と.

かつてマチルダだった大人たちへ.

ミスター・ワームウッドのようになってはいませんか?