あの日の記録

推しは神様じゃないけど解釈は信仰

推しが人間なのに人間じゃない(ミュージカル「CROSS ROAD~悪魔のヴァイオリニスト パガニーニ~」に寄せて)

――孤独に愛されし地獄の公爵アムドゥスキアスに捧ぐ.

推しとまた出会ってしまった

興奮しているのに身体が動かない.幸せなのに涙が止まらない.そんな経験はおありだろうか.

私にはある.これはそのとき,すなわち地獄の公爵アムドゥスキアスの歌声を聴いたときの話だ.

アムドゥスキアスとは,人生の十字路にたたずむ音楽の悪魔であり,ミュージカル「CROSS ROAD~悪魔のヴァイオリニスト パガニーニ~」という作品に登場するキャラクターだ.自身の才能の限界に悩むヴァイオリニスト,ニコロ・パガニーニに「命と引き換えに100万曲の天才的な演奏を授ける」という提案をし,この血の契約にのったパガニーニに実際に音楽を与える.つまりは,音楽を愛し,人間に人生の選択を迫る悪魔である.そして,音楽の悪魔らしく,作品内で何曲もの難曲を歌って歌って歌いまくる.

ところで,アムドゥスキアスの中の人はとても歌が上手い.私が今更説明する必要がないほど歌が上手い.「歌が上手い」以外の賛辞がすべて吹っ飛んでしまうくらい圧倒的で,きらめいていて,まっすぐで,強力な歌を歌う人だ.そのことは,アムドゥスキアスの歌を聴くまでに十分知っているつもりだった.

しかしそれは,知った気になっていただけだった.アムドゥスキアスの歌はそんなものじゃなかったのだ.

一瞬で「人間ではない」ことを本能的に理解させる神々しさ.人間を誘惑する甘く蠱惑的な響き.自信に基づく余裕と奔放さ.闇に差し込む一筋の光明となる輝き.音楽への信頼と欲望.それらをすべて音に込めて,直接脳内に注ぎ込んでくる歌声だった.

すごい,この人はすごい.

マスクの下であんぐりと口を開け,次から次へとあふれてくる涙をぬぐうこともできず,ただ「とんでもない人に出会ってしまった」と思った.出会ったのはもう何年も前なのに,また新たな「出会いの物語」が始まってしまった.これ以上好きになんてなりようがないと思っていたのに,また好きになってしまった.

好きだ,と思った.

鳴ってもいないファンファーレが聞こえる.ガチャで最高レアを引いたときのようなまばゆい光景が見える.思考のメモリを瞬時に占拠され,他のことは何も考えられない.血圧が跳ね上がり,身体が内側から煮えるように熱くなる.息をするのも忘れた.

それくらい,アムドゥスキアスは悪魔だった.一瞬で私の人生を塗り替えてしまった悪魔.

だが,私はこの悪魔に感謝こそすれ,恨むことはない.なぜなら,この人を好きになったのは悪魔の誘惑のせいだとしても,あるいは魔法使いの夢のせいだとしても,今もまだ好きでいるのは私の選択の結果だからだ.

生身の俳優を好きでいるのは簡単じゃない.生きていればたくさんの変化があるし,私の望むような仕事をしてくれる保証はない.それでも好きでいることを選ぶのか自問自答したとき,私は十字路で悪魔と出会った.そこで悪魔の手を取ったために,私はあの人を「推し」と呼び,今まで追い続けてきた.

そして今,再びその手を強く握り返そうとしている.そのための決意表明として,あの人の好きなところの中でも特にアムドゥスキアスを観ていて再確認したことを2つ,ここに書き記しておきたい.

1. 人間なのに人間じゃない

言うまでもないが,あの人は人間だ.ホモサピエンスである.私はあの人の遺伝子を検査したことも検査結果を知ったこともないが,あの人が人間でない確率は統計的有意に低いため,人間とみなして差し支えないと考えている.

しかしあの人は,舞台上でひとたび役を纏うと「人間じゃなく」なることができる.もちろん良い意味でだ.人智を超えた存在を演じるときの完成度が異様に高い.人間と同じ摂理で生きていない,独自の理論体系により存在を保証された「人間ではない何か」になることができる人なのだ.

例えばそれは天才で,例えばそれは神の御子で,例えばそれは良心の具現化で,例えばそれはビーグル犬.そして今回の悪魔.どれも「人間」の枠を逸脱し,到底人間ではないことを感じさせるが,しかし,演じているのは紛れもなく人間である.

私はこの倒錯がたまらなく好きだ.「自分以外の存在になることができる」ところが役者という職業の魅力の一つだと思うが,生物としての種の壁はそうたやすく越えられるものではない.にもかかわらず,あの人はまるでそこに壁などないかのようにやすやすと,「人間ではない」存在を演じてみせる.そこに私は夢を見ている.

ちなみに,「人間ではない」ことと「感情をもたない」ことは必要十分ではない.感情のない人間もいれば感情のある人外もいる.アムドゥスキアスにだって感情はあるだろう.ニコロを手に入れたことに喜んだり,エリザを含む大衆にニコロを自慢したり,テレーザやニコロの言動に憤ったりはするのだ.ただ,アイデンティティが人間とは離れたところにあるというだけである.

そして,あの人が「人間じゃなく」なるのを支えている要素の一つが,「音楽」だ.言葉がメロディと一体化した瞬間,あの人の背中には羽が生え,天界へと飛び立っていく.まさに鬼に金棒,いや,虎に翼である.ここまで声を自在に操り,音楽を表現の糧とするさまには,どうしたって舌を巻かずにはいられない.古来,人類がコミュニケーションやエンターテイメントの手段として用いてきた音楽というものに,あの人によって新たな使い道が追加されたのだ.音楽の再発明だ.

これを可能にするのが,音楽への飽くなき探求心なのだろう.生まれもった声質や感性が素晴らしいのは言うまでもないが,そこにあぐらをかかず,音楽を愛し向上心を持ち続けているところもまた素晴らしい.作品を経るごとどころか一回の公演ごと,一曲ごとにでも,着実に経験値を積み重ね,レベルアップしていく.そのストイックさがあるから,あの人はいつでも舞台上で音楽を鳴り響かせ,人間でありながら「人間ではない」ところに身を置くことができる.まさに「僕こそ音楽」を地で行く人だ.悪魔が寄り付く隙もない.

2.孤独に愛されるが孤独を愛さない

人間でない存在というのは得てして孤独である.そこらへんにあふれている人間と違うというのは,誰からの共感も手助けも得られない.まして,神や悪魔であったならなおさらだ.人間は神や悪魔を崇めたり責めたりすることはあっても,理解はしないのだから.

つまるところ,人間でない役を演じるあの人の背後には,孤独がぴったりと張り付いていることがとても多い.誰にも理解されず,罵られ,非難され,渇望され,ときには盲目に信仰される.その姿は暴力的なまでに美しい.孤独という影があることで,生命の輝きが否応なく強調されるのだ.

それでもあの人が演じる役は,孤独に惑わされたり飲み込まれたりすることはない.ひとりであろうが何であろうがお構いなしに,自身の目的のために建設的に行動し,未来を見ている.例えば自分以外の周囲の人間がいくら殺されようと,唯一の理解者になってくれそうだった相手に先立たれようと,希望を見失うことのできない性質をしている.闇堕ちルートが存在しないのだ.孤独と相容れることはない.いつも後ろを追いかけている孤独の方がかわいそうになるくらいの塩対応である.

アムドゥスキアスも例に漏れず孤独な存在で,「29の軍団が長」と名乗る割には,この悪魔のことを慕っている人物は登場しない.契約相手であるパガニーニも,アムドゥスキアスを良く思ってはくれないし,ましてや慮ってなどくれないのである.

そんなパガニーニに対して,アムドゥスキアスが「お前の友は私しかいない」(※ニュアンス)と語りかける台詞があった.字面だけ読めば,ヤンデレ御用達の台詞だろう.相手を自分に依存させて抜け出せなくさせることで,自身の優位性を保ち,快感を味わうための洗脳と言い換えてもいい.しかしこの人が演じるアムドゥスキアスは,一切の精神的な支配性を込めずにこの言葉を放つ.まるで法廷で証言を求める裁判官のように(それにしてはあるまじき誘導尋問ではあるが),事実を確かめ認識をすり合わせるためにこう言うのだ.アムドゥスキアスの行動原理が「孤独の解消」ではないからである.

ではアムドゥスキアスは何のために行動しているのか? それは音楽だ.作中で自ら言及しているように、アムドゥスキアスは「音楽を抑えられない」.至高の音楽を手に入れるためなら手段を選ばないし,面倒な工作もする.自身の欲望のままに,好きなものをつかみたい気持ちのままに行動している.そこに孤独が関与する隙はない.どれだけ孤独に愛されても孤独を愛し返すことがない.そこが好きだ.

最後に

もちろん,あの人が演じるすべての役が人間でないとは思わないし,絶対に孤独を愛さないと断言したいわけでもない.今回アムドゥスキアスという役を観て,こう感じたという話だ.

アムドゥスキアス.恐ろしい悪魔だ.もうこれ以上奪いようのなかったはずの私の心を,また奪っていってしまったのだから.

だから私はここでもう一度,悪魔の手を取ることを選ぼうと思う.好きでい続ける気持ちを差し出すから,また演奏を聴かせてほしい.

アムドゥスキアス(通称アムちゃん)さんへ.

私には貴方に捧げられる音楽がないから,この言葉で許してくれますか.

大好きです.